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ツボの歴史①ー百会
フレアス在宅マッサージ埼玉戸田施術所の瀧田です。
今回はツボの歴史についてご紹介いたします。
鍼灸(しんきゅう)の歴史は古く、文献上判明しているだけでも、1800年程度の歴史を有しています。
考古学の遺物からの推定年代は、おそらく2500〜3000年程昔から行われていたものと推定されています。
日本においては、8世紀中頃、奈良時代の養老律令の条文中に鍼博士(はりはかせ)、鍼生(はりせい){医博士、医生と言う用語も見られる}の文字が見えるので概ね1200年といった所と思われます。
その古代中国の歴史書に、司馬遷と言う人の書いた「史記」と言う書物があります。
封建領主諸侯の事蹟を記した「世家」とならび、一代の突出した人物を著した著作を「列伝」としています。
その第四十五章では、扁鵲(へんじゃく)と倉公という古代の医師の生活や医案について比較的詳しく述べられていて、大変興味深い物語です。
司馬遷によると、扁鵲は今の河南省(鄭)の人であったらしく、しかし姓は秦、名は越人ということで、元々は西方からの渡来人の可能性もある処が興味深く思われます。
彼は、若い頃に長顙君という隠者から秘法の医薬と医術書を伝授され、それ以来内臓の動きが眼に見えるようになり、ある種の超常能力が備わってきたとされます。
ある日扁鵲は、カクという小国へ訪れた処、街中から祈祷の声がして何やら騒がしい様子。
次いで、その国の王子が亡くなったという知らせを聞いたのです。
門前の役人に王子はいつ死んだか、と聞くと夜明け方という。そこで、彼は未だ死命は決していない、と判断し、王に面会して治療を申し出たのです。
彼はまず弟子に鍼を研がせ、それを三陽五会というツボに打ったところ、王子の息が戻り蘇生したのです。
そこで更に火のし(温罨法)を当て、薬を服用させた処、床に座ることができた、とされます。
彼の診断では、王子の病は尸闕という、今でいうところの脳の一過性の虚血状態または軽度の脳梗塞のようなものであったらしいです。
ここで使われていた三陽五会とはどんなツボか、ということなのだけれども色々と説はあってハッキリとはしていません。
しかし百会が最もそれに近いのでは、、、?という説は一応有力となっています。
百会の効能としては、癲狂、中風昏迷、眩闕、耳鳴、健忘、失眠、鼻塞、脱肛、小児夜泣などであって、精神不安や卒中発作後の後遺障害改善、血圧調整に使用したりすることの多いツボとなっています。
百会という名前の由来も身体中の経脈(生命エネルギーの通路)絡脈(それらを繋ぐ小流)の会する場所という意味からなので、益々それらしいところと言えるでしょう。
扁鵲は大変な名医と言うことになっているけれども、活動期間の長さやその範囲を考慮すると一人の人物とはちょっと考え難いところがあります。
そこで丸山昌郎先生は、これは彼の思想を信奉する医療者グループによって成されたものであろうとしています。
参考文献
司馬遷『史記ー扁鵲倉公列伝』
丸山昌郎『素問の栞』日本内経医学会
藤木俊朗『素問医学の世界』績文堂
程宝書『針灸大辞典』北京科学技術出版社
今回はツボの歴史についてご紹介いたします。
鍼灸(しんきゅう)の歴史は古く、文献上判明しているだけでも、1800年程度の歴史を有しています。
考古学の遺物からの推定年代は、おそらく2500〜3000年程昔から行われていたものと推定されています。
日本においては、8世紀中頃、奈良時代の養老律令の条文中に鍼博士(はりはかせ)、鍼生(はりせい){医博士、医生と言う用語も見られる}の文字が見えるので概ね1200年といった所と思われます。
その古代中国の歴史書に、司馬遷と言う人の書いた「史記」と言う書物があります。
封建領主諸侯の事蹟を記した「世家」とならび、一代の突出した人物を著した著作を「列伝」としています。
その第四十五章では、扁鵲(へんじゃく)と倉公という古代の医師の生活や医案について比較的詳しく述べられていて、大変興味深い物語です。
司馬遷によると、扁鵲は今の河南省(鄭)の人であったらしく、しかし姓は秦、名は越人ということで、元々は西方からの渡来人の可能性もある処が興味深く思われます。
彼は、若い頃に長顙君という隠者から秘法の医薬と医術書を伝授され、それ以来内臓の動きが眼に見えるようになり、ある種の超常能力が備わってきたとされます。
ある日扁鵲は、カクという小国へ訪れた処、街中から祈祷の声がして何やら騒がしい様子。
次いで、その国の王子が亡くなったという知らせを聞いたのです。
門前の役人に王子はいつ死んだか、と聞くと夜明け方という。そこで、彼は未だ死命は決していない、と判断し、王に面会して治療を申し出たのです。
彼はまず弟子に鍼を研がせ、それを三陽五会というツボに打ったところ、王子の息が戻り蘇生したのです。
そこで更に火のし(温罨法)を当て、薬を服用させた処、床に座ることができた、とされます。
彼の診断では、王子の病は尸闕という、今でいうところの脳の一過性の虚血状態または軽度の脳梗塞のようなものであったらしいです。
ここで使われていた三陽五会とはどんなツボか、ということなのだけれども色々と説はあってハッキリとはしていません。
しかし百会が最もそれに近いのでは、、、?という説は一応有力となっています。
百会の効能としては、癲狂、中風昏迷、眩闕、耳鳴、健忘、失眠、鼻塞、脱肛、小児夜泣などであって、精神不安や卒中発作後の後遺障害改善、血圧調整に使用したりすることの多いツボとなっています。
百会という名前の由来も身体中の経脈(生命エネルギーの通路)絡脈(それらを繋ぐ小流)の会する場所という意味からなので、益々それらしいところと言えるでしょう。
扁鵲は大変な名医と言うことになっているけれども、活動期間の長さやその範囲を考慮すると一人の人物とはちょっと考え難いところがあります。
そこで丸山昌郎先生は、これは彼の思想を信奉する医療者グループによって成されたものであろうとしています。
参考文献
司馬遷『史記ー扁鵲倉公列伝』
丸山昌郎『素問の栞』日本内経医学会
藤木俊朗『素問医学の世界』績文堂
程宝書『針灸大辞典』北京科学技術出版社